足の下に時間が降り積もっている

Pro Antiques "COM"の場所


 
 京都市中京区三条通り高倉上る東片町というのが、Pro Antiques "COM"の現在の所在地です。「三条通り高倉上る」は昔からの京都の地名表現法で、碁盤の目の条坊制の古い街路のタテ軸ヨコ軸の呼称によって、ほぼどこの位置にあるのかすぐに理解できるという仕掛けです。
 
 昔から京童は「アネサンロッカクタコニシキ・・・」と言う街路の名前を幼少期から童謡として歌い、その通りの順序を暗記するという知恵を大切にしてきました。そうした地域伝承によって、京都市内に育った人間はXX通りと言えばだいたいすぐにどのあたりかが分かるのです。

 Pro Antiques "COM"は「三条通り高倉上る」ですから東海道の終着駅であるヨコ軸の三条通りと、南北に走る高倉通りの交差場所から、「北」に上るという位置情報を頭の中でイメージし、だいたいの位置をつかむ事ができます。

 そしてこの「三条通り高倉上る」にも、平安遷都以来、歴史はすこしずつ降り積もり、時代ごとに様々な歴史が重なりそれを偲ぶ事ができます。
 
 
 


中京区東片町ではかつて歴史的な大事件も。

  京都は古い町ですので大抵どこにおいても歴史的な出来事やエピソードには事欠きません。
 
 Pro Antiques "COM"の位置する三条高倉上がるでも、かつて日本を震撼させる大事件が起きました。800年程度むかしにここに、後白河法皇の皇子である以仁王の邸宅があったと言えば、歴史好きなら「あーあれか・・・」と思い出されるのではないでしょうか。
 
 治承4年(1180年)ここで国家転覆を計る一大クーデター未遂の謀略が露見しました。
 前年、平清盛は後白河法皇を鳥羽御殿に幽閉し、近衛関白などの政官を解任し事実上のクーデータを敢行します。それを受けて後白河法皇の第三皇子であった以仁王は、源頼政と計り平家打倒のクーデターを計画し、ここで密議を繰り返したのです。
 
 しかし、それが平家方に露見。平氏はこの以仁王邸宅に六波羅から検非違使勢300余騎を急派して邸宅を囲みます。小競り合いの起きる中で以仁王は女装して邸宅を脱出、周辺で兵火が起き付近一帯は騒然となりました。その邸宅跡がPro Antiques "COM"の真下にあります。
 
 高倉通りを隔ててPro Antiques "COM"の真向かいに当たる京都府立文化博物館の「ろうじ店舗」内には、以仁王邸宅跡の発掘に際しての地表面である地表マイナス2mの現場を埋め戻さず、当時の邸宅跡を偲ぶ風姿を再現しています。
 
 現在、その場所には料亭なだ万の京都支店に当たる「京都なだ万賓館」があり、当時の邸宅と同じ高さで、定評ある和食料理を楽しむ事ができます。
 
 「京都なだ万賓館」
 https://www.nadaman.co.jp/restaurant/kyotohinkan/


やはり地面を少し掘るだけでも色々と出土します。

  Pro Antiques "COM"は120年前の町屋を改修した町屋店舗(かなり増改築されている)ですが、その改修に際して整地の段階でも様々なものが少し掘り下げるだけで出てきました。
 
 下水管の改修でも多数の陶器片や金属製品が出てきます。1200年間、様々な人々が活発な活動を続けそこに住み続けてきたわけですから、当然と言えば当然なのかもしれません。明治時代より現代のものは当たり前ですが、明らかに江戸期の遺物が表面採集でも多数見つかります。
 
 Pro Antiques "COM"最深部の坪庭には、昔、誰かによっておそらく庭石として使われたと思われる大石が地表に露出しています。写真のようにその一つは明らかに寺院建築か貴族邸宅の礎石として使われていた人工の加工石です。
 
 もちろん地表に露出しているわけですから、以仁王邸宅の礎石などではないのですが、では何故こんなところにあるのか、持ち込んだものか掘り出したものかも含めてはもはや知る事ができません。
 

 

時代は下り明治時代。

  織豊期には付近一帯が京都の金融センターでした。室町末頃から商工業の隆盛とともに兵火で何度か焼けながらも、金銀の交易が行われます。近世期を通してここに金座・銀座が置かれており、付近の町名にもその名が残ります。東海道の西の終点だったわけですので、当然のことと言えるのかもしれません。
 
 明治期に入ると明治政府は西の金融センターをここに集め、日銀の京都本店をここに定めます。現在の文化博物館がそれにあたり、旧館は建築当初の姿のまま今に残ります。こうして日本最初の近代建築ビル街がこの三条に誕生し、現在も幾つかの建築物が当時の風姿を残しています。
 
 東の東京都では明治の同時期に建てられたレンガ建築物は1923年(大正12年)の関東大震災でほとんどが失われてしまっており、三条界隈ではそうした建築物が数多く残存していたのですが、昭和40年ごろを境にしてほどんどが取り壊されてしまい明治期の近代レンガ建築物が失われてしまったことは実に惜しく悔やまれることです。
 
 Pro Antiques "COM"周辺には京都の「へそ」と言われる六角堂や、元は巨大神社であった五所八幡宮、在原業平旧邸跡など、歴史を偲ぶ貴重なポイントが数多く存在しています。
 
Pro Antiques "COM"

 


三条地図

中三条界隈マップ by Pro Antiques "COM"

中三條周辺案内

1.三条通り近代オフィスビル群

 
 東海道53次の西方起点として栄えた京都中三条界隈は、近代に入っても西日本を代表する商業・金融の起点の一つでもありました。明治期には日銀京都ビルをはじめ、多数の煉瓦造りの近代建築が立ち並び西日本を代表する近代オフィスビル群の先駆けとなりました。旧渡辺時計店ビルや旧毎日新聞京都支店ビルなど、当時の建築物がいくつも残っています。
 

2.旧日本銀行 京都支店ビル

 
 中三条界隈の近代オフィスビル群を代表する近代建築。1903年着工。実に三年がかりの1906年に竣工。英国クイーンアン様式をベースに赤レンガに白い花崗岩をアクセントに配しています。尖塔やアーチドームなど強いアクセントが生える明治時代を代表する建築物となっており、国の重要文化財に指定されています。現在は京都府立文化博物館の別館として現役で使われ中央ホール内部や金庫室などを見る事ができます。
 

3.六角堂へそ石

 
 AC587年創建と伝わる頂法寺六角堂は、794年の平安遷都の際、その建築位置が街路計画の道路の上に位置したため、やむなく御堂を移動させた時に残った礎石で有るとされています。古から京童はこの石を「京都のへそ」と呼び、様々な願掛けなどの祈り石として珍重してきました。同時に所在する六角堂は現世から幽界につながるスポットとして、足を向ける人の多い人気スポットとなっています。
 


4.旧京都瓦斯本社跡

 
 1906年(明治42年)に創業された京都瓦斯本社ビル跡です。昭和20年に大阪瓦斯に合併し社屋なども解体されてしまいましたが、当時のガス灯が再現されており24時間瓦斯の光が周辺を照らすランドポイントとして残っています。
 

5.在原業平邸宅跡

 
 小倉百人一首「ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」など、優れた和歌を多数残したことで知られる在原業平の邸宅がここにあったとされています。業平は平安期を代表する「美男子」としても知られており、平安期を代表する恋歌にその風雅が偲ばれます。
 

Pro Antiques "COM"